取手市の金刀比羅神社

2023/05/11

寺社

関東鉄道常総線・西取手駅から歩き出したはいいが、道を間違えて住宅街の中を彷徨う。

途中からスマホを取り出すが、やっぱりウロウロ。

地元住民のみなさん、スマホを見ながら住宅街をキョロキョロしていたオバチャンは私です。怪しいものではありません。

そしてGoogleマップありがとう。

何とか入口らしき所まで到着。

今日は取手市白山にある“大鹿 金刀比羅神社”へ、お参りに来た。

ある程度の下調べはしてきたが、やっぱり鳥居とかないんだな。

さすがにまだ手水舎に水はなかった。

拝殿前まで入ってきて鳥居を発見。

私は裏側から入ってしまったようで、こちら側が表のようだ。

狛犬さんが愛らしい。

四国・讃岐金毘羅大権現の名前が入った碑もある。

これは四国からの写し(分祀)とかそういう意味合いなのだろうか。

改めて拝殿で手を合わせる。

取手は利根川沿岸屈指の船着き場で、舟運の安全や農業用水の確保を願うために天明元年(1781年)に讃岐の金刀比羅宮から分祀された、との説明書きがある。

利根川は暴れ川で洪水などの被害も多かったそうだから、そういう災害からの守護ということもあったのだろうな。

境内には稲荷神社もあった。

小さいけれど、大事にされている。

そして石段を下りたところに、木々に囲まれた御堂がある。

取手市、千葉県我孫子市・柏市にある“新四国相馬霊場八十八ヶ所”を開いた光音禅師を奉った御堂だそうだ。

急な石段を下りてきて、やはりこちらが表参道だったのだなあと思ったりする。

ここからまた住宅の間の細い道を歩いて行くと、急に道が開けた交差点に鳥居が現れる。 

金刀比羅神社の鳥居だ。歩いてきた道はこの鳥居の向こう側で、きっとこの鳥居から参道が始まるということなのだろう。

ちなみに現在の鳥居は東日本大震災の時にヒビが入った鳥居の代わりに再建されたもので、前代の鳥居の一部と、その前の代の台座が残されている。

地元の人達に本当に大事にされているのだなあと感慨深く挨拶してきた。

社務所で戴いた御朱印。

うさぎの印が可愛い。

 

商店街の途中から再び住宅道路を抜け、幸い大きな御堂の屋根が見えていたのでそれを目指して歩き進む。

またしても裏口に辿り着いてしまったので、表へ回る。

浄土宗 大鹿山 弘経寺(ぐぎょうじ)

立派な山門は鐘楼でもあって、上に鐘が下がっている。

山門(鐘楼門)を抜けると境内が広がる。

まずは本堂へお参り。

最近、浄土宗のこういう寺紋のお寺へお参りした記憶があるぞ、増上寺か、などと思ったら、こちらの弘経寺は徳川家康から朱印状を賜った御朱印寺ということで格式を整えたり規模の拡大などに繋がったとのこと。

徳川家ゆかりの寺だったのか。

 

広い境内には多くの御堂や石塔、石碑などの他に巨木も多く、歴史を感じさせられた。

客殿へお邪魔して御本尊の御朱印を戴く。

御朱印をお願いしている間に、お茶とお菓子を頂戴した。

歩き回った喉に、緑茶がしみる。

お腹も空いていたので瓦せんべいがありがたかったのだけれど、経験から、バリボリと結構な音を立ててしまいそうだったので、持ち帰ってごちそうになった。

久し振りに素朴な味の正統派瓦せんべいを食べたが、とてもおいしかった。

懐かしい味がする。


ところで、金刀比羅神社も弘経寺も“大鹿”という名前が付くのだが、現在の取手市の住所にそういう地名はない。昔の村とかの名前で、村同士の合併などで消えてしまった名前なのかなーなどと思って調べてみた。

戦国時代に、この辺りに大鹿城という城があり、大鹿太郎左衛門(おおしかたろうざえもん)という城主がいた。

ちなみに、その大鹿城の砦があったことから“とりで(取手)”という名前になったという謂われがあるとのこと。

凄いな歴史。調べてみるものだな 。

ちなみに大鹿城のあった所は現在取手競輪場になっている台地の南端ということだ。

競輪場へ行ったことはないのだが、利根川のある方から行くと坂道を上がった、やけに高い所にあるんだなあと思ってはいた。

でも、こうやって調べたことをいつまで覚えていられるか判らないから書いておこう、そんな自分の覚え書きのブログなのだから。